――どのようにして本作の着想を得たのでしょうか?


この数年、この種の犯罪者及びその概念に対する世間の扱い方を考えていたんだ。この視点で見ると児童虐待と断言できる犯罪はほとんどないと言えるね。

これは社会の最大の犯罪のひとつだ。法律を肯定する立派な市民でさえ、この犯罪の被疑者に対しては、中世の裁判に戻ってあらゆる種類の罰を与えたいと願うほどだ。

このような犯罪を耳にすると、私自身もそういう思いから逃れられない。こういった犯罪は私には想像もつかなければ思い描くこともできないものだ。
それに、私はこれまで長いこと、扇情的に報道する新聞を読んできたが、このようなテーマを記事にするのはもっぱらこうしたタブロイド紙ばかりなんだ。

そのことに心からショックを受け、私は自分自身でこのテーマを手掛けたいと思った。

何も隠さずに、このテーマを伝えようと試みてきたが、それには映画で表現するのが一番うまくいくだろうと考えた。

この目的のために、意図的にこの国や海外の事件を取り上げるのを避け、メディアで報道されなかった人々を選んだ。

これは一切自伝的な作品ではないうえに、過去にも私自身の個人的な環境において小児性愛者の事件は発生していない。

草稿を書き上げると、国際的に有名な裁判心理学者のハイディ・カストナー博士に科学的な見地からこの登場人物像と彼の行動の精査を依頼したんだ。
このようなテーマで勝手に想像を巡らせて描くのは、危険でありバカげているからね。

本作『ミヒャエル〈未〉』の取り組みに際して私の関心は、ひとつは35歳の男と誘拐された10歳の少年が日々を過ごす最後の5か月間を描くという物語の内容にあった。もうひとつは私にとって最も重要なことだが、このような物語を伝えることができる方法や手段にあった。

本作は加害者側から描かれた映画だ。私は加害者自身の世界と視点から描きたいと考えた。

本作『ミヒャエル』では、意図的に道徳観の押し付けや解説を含めないように努め、ただこの加害者の男と子供とその交流だけを描いている。

私は人が否応なしに直面せざるを得ない作品を創作したいと考えた。その作品では、誰もがその実体を目にせざるを得ない。そして、それが私の意図することである。こうした感情にしっかり取り組めば、社会あるいは私たち皆が進歩していくのに役立つからね。社会は、犯罪者を扱うことができるのと同じ程度にしか発展できないものなんだ。



――犯罪者はメディアではモンスターと一様に呼ばれていますが・・・

タブロイド紙は「~モンスター」といったような読者の興味を引くような文句を使いたがる。しかし、モンスターは人間ではない――作り話に出てくる架空の生き物だ。そこで、犯罪者はすべての人間性を否定されるわけだよ。

確かに、犯罪者との間に距離を置くことはきわめて重要だ。そして、距離を置くために私たちの取る手段は独断的である。それは単に、私たちとこのような行動をした犯罪者の間に出来るだけ広く距離を置こうとするからにすぎない。

人はそういった人間を見たくないんだ。同じ人間とみなされて一緒にされたくないのはもちろんのことだがね。

私たちはたいてい内面の要素と外面の要素を探し出して、それによって他者を区別する。しかし、それは必ずしも他者を理解し洞察するためというわけではなく、むしろ他者を自分から遠ざけるためなんだ。私たちは常に同じお決まりの方法、つまり、心理学的説明という手段によって、このような強迫観念的な“救い”を求める。そして、不気味な怪物をでっち上げることでその説明を強化するんだよ。

本作『ミヒャエル』では意識的にこのお決まりの方法を無視しようと心掛けた。私の要点はこうだ。どんな犯罪であれ、私がその犯罪行為を理解していない限り、作品で取り扱うことはできない。そして、その行為を理解してこそはじめて加害者と同じ人間として向き合うことができる。だからといってもそれは犯罪者を許すということではないんだ。許すことは被害者がすべきことだからね。それに、判決は裁判所が下すものだよ。



――また、この加害者の生活には普通の側面もあるわけですね・・・


誘拐した相手と生活するのはどんなものなのか。両者にとってね。しばらくして、最初の抵抗が終わり、こうした生活に慣れてきたらどんな風になるのか。

本作の見解では、この時点である関係が生まれている。2人はすでに一緒に過ごし、互いに慣れてきている――それはどんな風なものか。

それが私の描きたかったことなんだ。

そして、ある種の性的な場面もある。それが2人の生活の一部だからね。それはもちろん完全に加害者が支配している。

しかし、繰り返しになるが、この加害者は、普通を絵にかいたような平凡な生活以外はいっさいしようとしない。彼は他の人と同じようにしている。

多大な努力を払って普通の習慣に固執しているんだ。それが彼の犯罪を隠すことになるからね。

私は、“自然な”そして“普通な”生活として描かれる、自己の創造による幸福な生活に興味がある。というのは、私にとって、この生活はまた、私が生活するうえでの普通さや、日常生活を考えさせるものでもあるからだ。人は、極限状態にいると、普通さを追い求める。そうでもしないと、極限状態に耐えられなくなってしまうからだ。そしてそうやって普通さを求めることによって、日常や平凡なことが実は普通ではなく特別なことだと気づく。普通とは一体、何なのか?――人が普通さを演じているのは自己防衛のためなのだろうか?安心感を求めているだけなのだろうか?



――本作で興味深いと思う一方でまたゾッとしたのは、この加害者が普通さを求めるだけでなく、この普通さによって加害者が異常だと分からないことです。この男は保険会社で仕事をきちんとこなし、昇進までして、高く評価され、スキー旅行に招待されたりもしています。“普通の人たち”は、この男が完全に普通の人間であるかのように接しています。それが、私にとって、本作の気がかりな局面でもありまた不安にさせる局面でもあるのですが。


たとえ異常さが普通さの反対だとしても、それが人生のあらゆる領域に行き渡っているわけではないと思う。異常さは単にひとつの面にすぎないからね。
本作『ミヒャエル』では、この加害者のもつ異常さ、つまり、小児性愛がこの子供の誘拐に駆り立てた。しかし、それは即座に人から敬遠されるほどこの男を際立たせるものではないんだ。そして、このような事件では典型的なことだが、近所の人たちが駆け寄ってきて、「彼はいつだってとてもいい人でした…」と言うが、それは彼らが異常な面と正常な面のバランスを取ろうとしているからだ。この理解の欠如から――自分の猫の面倒を見てくれた人がどうして突然異常になれるんだろうかと考える。私たちにはそんなことは全くあり得ないことのように思えるんだ。
そんなことが起こり得れば、自分自身の正常さが危うくなるからだよ。



――本作『ミヒャエル』の登場人物たちは一方で“普通に”、他方ではやや冷淡に反応しています――
涙を流すシーンや劇的なシーンなどは滅多にありませんね。


ひどいことはそれだけで十分にひどいからね。映画という表現媒体によってこの方向をさらに追及する際に、感情を込めるわけにはいかなかったんだ。

私は脚本執筆中の早い段階で、このテーマでは、被害者を主人公にした映画にはしたくないと考えた。だから本作は淡々とした描き方になったんだよ。

理由としては第一に私はこのテーマに精通しているわけではないからであり、第二に被害者を視点にした映画は被害者を利用していることが多いからだ。私はそうしたくなかった。


私は感情を込めたお涙頂戴の感傷的な方法で、あるいは自分の感情に溺れて、このテーマに打ち込むわけにはいかなかった。私は本作で演じる俳優たちを守っているし、それに加害者と被害者の両方の人物像に彼ら自身の空間を与えたんだ。

登場人物の頬に涙が流れる低俗なズームショットはない。そういうショットは実に失礼だね。それは家族向け娯楽映画のきわめて感情に訴えかける形式で、登場人物が泣いているのを見たから観客の泣きのスイッチが入るという手法を強めるだけだよ。それに、それは唯一の強みである、感情に訴えかける方法はひとつだけだ、という誤った考えもしたくなかった――決してそんなことはないからね 。



――今、出演者のことに触れましたが――
このような映画に子供を出演させるのは私にはきわめて大胆に思われるのですが。


最も大事なことは包み隠さず正直に接することだった。キャスティングの終盤で、母親のひとりが立ち上がってその場を去った。私が将来彼女の息子を守ることができると約束できなかったからなんだ。この役を演じた子供が学校で友達にいじめられないと保証することはできないよ。それは無理だ。できると言ったら嘘になる。しかし、この役を演じた子供がこの主題で人に左右されず主体性を持って考えられるように、話し合ったり耳を傾けたりして、必要な手段を与えるように心掛けたんだ。

そこで、最も重要なことはこの役を息子が演じるのを許すだけでなく興味を持って相談相手に応じてくれる両親を見つけること、そして、ふさわしい演技力と地に足の着いた健全な人格を備えた子供を見つけることだった。私には虐待を描く映画は作れないし、同時に虐待の罪を犯すこともできない。その子供は被害者を演じることから、この映画は彼に大きな影響を及ぼす。しかしまた、加害者を演じるミヒャエル・フイトにも大きな影響を及ぼすんだ。加害者の局面では、登場人物について話す前に私たち自身が自分がどういう人間なのかをじっくり考えることがきわめて重要だった。



――10歳の少年はこの物語をどのように理解するのでしょうか?


私にはこれまで子供たちと多くの仕事をしてきたという強みがあるんだ。特に、ミヒャエル・ハネケ監督の『白いリボン』では貴重な経験をした。こうした経験がなかったら、『ミヒャエル』をあえて手掛けたりはしなかっただろうね。子供たちに接するには彼らの目線に合わせること、つまり、子供たちの立場に立って接すること、それが実に重要なことだった。だから、特にこうしたテーマでは、子供を大人の世界に引っ張り上げるという問題ではなかったね。


私たちは彼と率直に話し、彼はいくつか戦略を考えたよ。私は彼の演じる人物の心の中で何が起きているかを彼自身に考える機会を何度も与えた。彼が監禁される地下室の装飾に協力することもまた重要なことだったね。地下室に飾られている絵は全て彼が描いたものなんだ。彼は、トンネルを掘るとか、どうやって復讐するかといった、逃げ出して自由になる空想を色々と巡らせた。彼がそうやって彼自身と彼自身の力で考えるようにさせたわけだ。彼は脚本の内容や結末を知っていたが、役の人物が自分ならどうやって逃げ出すかを自分で考えていたよ。この物語の内容は常にはっきりしていたが、私たちはこのテーマを話し合う方法について、彼と彼の両親と合意に達していた。彼に過剰に情報を与えるのではなく、いわば具体的な方法で彼が状況を理解できるようにすることがとても重要だったね。

子供を過少評価してはいけない。時に子供は、大人が思っている以上に、ずっと精通していることがある。しかし、それはとにかく、この映画で彼が演じる人物と同じように、どんなのぞきみ趣味もどんな卑猥な行為も許さないように――私や観客から――彼は保護されなければならないんだ。



――主役を演じたミヒャエル・フイトにとってはどうだったのでしょうか?


実際のところ、その質問には彼が答えるべきだよ。私が見た限りで言えることは、彼がこの物語にすっかり入り込んだこと、彼が色々な調査をしたこと、そして、繰り返すが、たとえ許すことができないにしても論理的に動きを追えるように、この人物に感情移入し演じることは恐らく大変だっただろうということだけだ。

彼は非常に誠実にこの役に取り組んでくれた。彼の演技は素晴らしかった。しかし、彼が次に演じるのはがらりと違う役であることを願っているね。




(インタビュアー:ウルスラ・バーツ )